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1.M&A出資案件への対応2.財務面から見た海外経営、リスク管理3.海外子会社の経営リスク4.中国市場について5.グローバル展開の道筋

1、M&A出資案件への対応

M&A案件については、既に時効になった案例の方がお話しやすいので、1990年以前の案件から学んだことをお伝えしたい。

●ザイールのフランス系銀行への出資案件

写真住友銀行では、たくさんのM&Aの案件を経験した。CFOの方々、あるいは財務・経理の方々は、一歩引いてM&A出資案件をご覧になると思うが、私が最初に手掛けた案件は直接現地へ飛んだ案件だった。国際企画部の若手スタッフ時代、ザイールのフランス系銀行の出資案件だ。当時ザイールは、日本の銅の鉱山会社6社が、戦後最大の投資をしており、日本では大きな注目を浴びていた。そこへフランス、オランダ、ベルギーの3カ国をベースにした金融機関から「現地の銀行に出資をしないか」ともちかけられた。今後、ザイールと日本との関係が深まるだろうから、連携銀行として一緒にやらないか、という話だった。

当時20代の後半だった私は、同僚と二人で、デューデリをしなければならなかった。私がザイールへ行っても、フランス語が読めるわけではない。しかし、やはり現場で帳簿を見るのは、非常に重要だったと思う。当然、子会社なのでフランスの銀行から、財務諸表が送られてきていたが、現場で比較の貸借対照表と損益計算書を3年、4年分つくってみた。これが、よかった。10万ドル、どこかへ飛んでいるのが見つかったのだ。どこへ行っているのかと、現場の社長に聞くと、現地人職員がスイスへ持って逃げてしまった、と言う。そして、その穴埋めに住友銀行から10万ドル欲しいという話だったのだ。

東京に飛んで帰って上司に報告したところ、「不祥事のある銀行はダメだ」ということで、この案件は流してしまった。これは正解だった。ザイールもその後政治不安となり、日本の六社連合の総額600億円程度と、当時(1970年代初め)としては巨額な投資は、530億円も飛ばしてしまうという大失敗を歴史に刻んだ。この一件で、私は、出ていく国の国柄や現地での状況はやはり現場できちんと見なくてはならないと、肝に銘じた。また初めて財務諸表分析の重要性を心底体感した。

●安宅事件

その直後、安宅事件が始まった。当時、私は本社で海外支店管理を行っていた。ニューヨーク支店の安宅産業に対するユーザーズ手形と新規取引の報告が合わない。随分長いこと合わなかったが、スタッフが直接支店長に聞くわけにもいかない。上司が支店とかけあったが、そうしているうちに事実が露見した。今で言う、ユーザーズ手形の飛ばしである。手形を書き換えることで、実態のない取引をあったかのように見せていた。

このとき私は、まだ若かったが、「しまった!」と思った。もう少し詰めればよかったと思った。やはり数字は縦横見て、それを見たマネジメントはきちんと詰めなければならない。ここの詰めが甘かったのは、安宅産業だけでなく、住友銀行にも大いに責任があると思う。40年も前の話なので、昔話として聞いていただきたいが、やはり数字の入りくり、あるいは齟齬は、よほど詰めなければならないと、本社のスタッフとして痛感した。

この事件を契機に、その後、私はニューヨークに3年間赴任することになったのだ。もちろん数字を見ていて、本来、今で言うなら、CFOと監査委員会と、あるいは監査法人のチェックが不十分だったということになると思う。が、当時は、その監査委員会の役割をメインバンクが果たしてきたのだから、「甘かった」というのは今でも悔いとして残っている。安宅サイドの後始末を随分お手伝いしたが、やはりパートナーを間違えたというのが一番大きかったと思う。パートナー選びは慎重にしなければならないことも、この安宅事件から私は学んだ。

●パナマ支店・コロンビア事務所の開設

ニューヨークでの最初の3年間、安宅産業の処理だけではなく、住友銀行の進出案件でパナマ支店、あるいはシアトル支店を設立した。これは今はもうない。コロンビア事務所もない。シアトル支店については、パートナーが悪かったのではなく、営業サイドの計画が極めて甘かったと思う。営業の詰めの甘さについて、「ノー」と言えるCFOスタッフがいなければならないと思う。

一方、パナマ支店の開設は、最初非常にうまくいった。現地で信頼できるパートナーをニューヨーク、ワシントン経由で持った。例えばバルレッタという、後に大蔵大臣になる人物を、私は彼がワシントンにいたときから知っていた。こういうパートナーがいるときは、まず間違いない。ただし、残念ながらパナマは、その後の政変によりノリエガ大統領になって、おかしくなった。結局、住友銀行は、パナマから命からがら逃げ出すことになるが、当初うまくいったのは、信頼できるパートナーのサポートがあったからだ。コロンビア事務所の開設も同様で、ハーバード帰りのコロンビア人の弁護士にその運営を全て任せた。だれも日本人が行かなかったがうまく回ったという例である。

これらの失敗と成功から学んだことは、パートナーの重要性だった。これは、万国共通で信頼できる現地パートナーがあって、初めて海外事業はうまく回る。よくあることだが、ザイールにしても安宅にしても、問題がある場合は、後から聞くと悪い評判が次々と耳に入ってくる。そうした情報は先に得ておかなければならない。

●タイの米銀金融子会社の買収案件

ニューヨークから帰ってきた私は、後に頭取となる森川敏雄国際企画部長の下、タイの米銀の金融子会社の買収を担当した。80年代の初めの話である。コンチネンタル銀行がアメリカで破たんしたため、アジアの拠点を売ることになり入札にかけられたのだ。当時、タイは外銀の進出規制が厳しく、東京銀行と三井銀行以外は支店がなかった。そうした状況下で、金融子会社を買いにいく案件だった。このときは1カ月程度かけて、詰めに詰めた。すると、やはりいろいろな問題が出てくる。不良資産をあぶり出すことはできるが、問題は危険の程度がよくわからない、という点にあった。我々もタイのバンコクに駐在事務所があったが、事務所の情報収集力にも限界があり、タイでは外資系の企業の信用調査は非常に難しかった。

結果、若かった私は、非常にシビアに貸金の査定を行い、事業のポテンシャルとのバランスを考え、やや低めの金額で入札したところ、落札したのは、マレーシア資本だった。これは私の大失敗である。本来そのマレーシアの入札者と一緒にやってもよかったのだ。マレーシア資本は問題貸金の危険度がよくわかっていた。その辺について、私は詰めが甘かったし、バンコクに進出して間もなかったこともあり、情報収集ネットワークが非常に狭かった。

現地での情報の取り方は、今から思えばいろいろあった。例えば、マレーシアの入札者は誰か、どうしてそこはそんなにアグレッシブに来るのかと追っていけば、その実、問題貸金はそれほどおかしな話ではなかったのかもしれない。だから、彼らは自信を持っていた。結局、私は1億円ぐらいの差でこの案件を取り逃しクビを覚悟した。しかし、森川さんの温情でそのまま残って、次の仕事を行うこととなった。

●ゴールドマン・サックスへの出資と合弁会社設立案件

次の仕事は、ゴールドマン・サックス社への出資と合弁会社の設立の案件だった。この案件自体は、当初出資額750億円で、出資期間17年間のIRRが24%で回ったという、前代未聞の大成功の投資だった。しかし、実際、私はこの取引は半分以上失敗だったと思っている。合弁設立に関しては、それまでの教訓を生かし、コンサルティング会社、インベストメントバンク、弁護士チームのチームワーク等には間違いはなかった。コンサルティング会社にマッキンゼーを雇って、入念に調査し、戦略を策定した。その結果を経営会議で3カ月かけて議論した末、ゴーサインが出た。インベンスト・メントバンクはラザード・フレールを雇い、弁護士チームはグラバスのチームを使った。このチームはディール・チームとしては万全だったと思う。したがって、ゴールドマン・サックスに対しては、イーブン以上に交渉できて、彼らとは合意に達した。

問題はその後だった。アメリカ政府の介入である。当時は、プラザ合意の最中、ルーブル合意の前だった。アメリカ政府の日本に抱く危機感もあったであろう。当初、ゴールドマン・サックスや我々は、12.5%のステーク(持分)をとるために、彼らの純資産の25%に当たる金額750億円を出資した。これそのものはよかったのだが、同時に東京とロンドンで合弁会社を設立するのはだめだという、FRBと米国財務省の介入がここであった。グラス・スティーガル・アクト(銀行の証券兼業禁止)の域外適用という、極めて異例な介入だった。

私は、ディール・チームには万全を期したが、政府が介入してくるということは全く予想していなかった。そのため、ワシントンのチームは非常に脆弱だった。ワシントンとの交渉になると、非常に難航した。最後の段階になって、ゴールドマン・サックスが非常に心配して、後に財務長官になるボブ・ルービンが、私の上司であった熊谷専務に、「大蔵省に何か言わなくていいのか」という話をしてくれた。専務に聞かれたとき、私はなぜか簡単に、「大蔵省はオーケーと言っているのだから、いいのではないですか」と返事をしていた。このときの、自分の反応には若干悔いが残る。

ただし、当時は、ルーブル合意の直前だった。日本はアメリカ政府の圧力の中にあって、もし我々が頼んだとしても、宮澤大蔵大臣(当時)にどれだけ動いてもらえたかはかなり疑問ではあった。この時代背景の差が、今日のアメリカ政府主導と思われるモルガン・スタンレーと三菱UFJの案件との大きな差であろう。
いずれにしても、ゴールドマン・サックスとの案件は、合弁会社ができなかったことで新聞にも随分叩かれた。私は、このゴールドマン・サックスへの出資会社のお守役として、その後、13年間ニューヨークにいることになる。出資会社の副社長、社長を経て、支店長、駐在常務を勤めさせてもらったが、私にとって、当初は座敷牢のようなものだった。

●デリバティブス子会社の香港進出

ただ、座敷牢で1人座っていてもしかたがないので、89年この会社をデリバティブスの会社に衣替えした。90年にロンドンに出店し、91年に香港にも出店した。これが、本当に私自身がアジアで手がけた最初の会社(支店)だった。このSBCM(住友バンク・キャピタル・マーケット)という会社は、20数年ずっと生きながらえて、ニューヨーク、ロンドン、香港で営業し続け、つい先年、私が在籍当時の最高益を更新したそうだ。

この会社が成功した理由は、100%現地化したことにあった。日本人は私と2、3人のマネジメントがニューヨークとロンドンに1人いた程度で、香港にいたっては実質日本人ゼロだった。私はあまり意識したことはないが、公用語は完全に英語だった。

日本人を出していると、こうはいかない。なぜなら、日本人を出すと、3年か5年で代わってしまい、継続性がなくなってしまう。ロンドンのヘッドも香港のヘッドも、今でも当時の人間が20年続けてやっている。ここまでくると、結構うまくいく。

90年代の初めには、アメリカとイギリスと香港の財務当局と、APA(移転価格に関する事前確認)交渉を行った。これは恐らく金融機関では、世界で初めてではなかったかと思う。バークレー銀行でも行っていたが、3カ国で行ったのは金融機関としては初めてだったのではないか。ここに日本が入っていないのは、アメリカ人、あるいはヨーロッパ人が主体となって行うオペレーションは日本では不可能だったということだ。

アメリカとイギリスとの間でAPAを行ったら、香港もシンガポールもすぐやってくれるという感じだった。話が非常に早く進んだ。しかし、当時、日本の国税当局は、APAは絶対認めなかった。そこで、住友銀行は、日本も含めるのであれば、絶対ノーと言うと返答した。当初は、日本の国税にしてみれば、余計なことをする、という判断だったのだろうが、最近は変わってきた。20年経てば変化せざるを得なくなる。しかし、APAは、やはりアメリカベース、あるいはロンドンベースのほうがやりやすいということはあると思う。

 

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